96年11月。帰国の3日位前の夜だった。ルノーに会いに「ラ・ビュット・シャイヨ」に行った帰り道、ロンシャン通りのあの看板に明かりが燈っているのに気がついた。え?ドキン、と心臓が一つ鳴った。開いてるの?ドキドキと高鳴る心臓を押さえながら、ドアの前に立つ。
「ボンソワール、マダム」中からにっこり笑顔のセルヴールが出てくる。「ボ、ボンソワール、ムシュ。あ、あの、このレストラン、営業してるんですか?」「ウイ、マダム。4日前から開いてます。どうぞ」とカードを手のひらに載せてくれる。《JAMIN −Benois GUICHARD−》 もっと早くに、この、フランス料理史上に名を残すレストランの復活を知っていれば、帰国前に来ることが出来たのに。知ったのが遅すぎた。
ロビュションが鬼才をふるい、あっという間もなく3つ星の栄光に包まれた「ジャマン」はしかし、ロビュションのレストランの移転と共に、門を閉ざした。数年の間、この小さなレストランの看板に明かりが燈ることは一度もなかった。ブノワ・ギシャール。ロビュションの弟子達の中でもとびっきりの彼は、15年の年月を師と共にした後、この伝説的なレストランを譲り受けた。この2年半に、星を2つ取り、帽子の点数は16になった。
「ジャマン」の椅子にようやく座ったのは、オープンから半年以上も過ぎた、7月、盛夏。アスペルジュ・ソヴァージュ(野生のアスパラガス)、パンプルムース(グレープフルーツ)のグラニテ(シャリシャリソルベ)の完璧さに圧倒された夏だった。2度目の訪れは、去年の2月下旬。トゥールーズに行く前日、変わらずに素晴らしいパンプルムースのグラニテとタルトに再び恍惚となった。そして今夜。3度目のパンプルムースとの再会に心が躍る。
フランスではとてもとても珍しい、自動ドアを通って、壁に沿った席に落ち着く。ロビュション時代の「ジャマン」と同じ内装の店内は、30人くらいのキャパシティーのごくこじんまりした造り。パステルグリーンとピンクで飾られた、可愛らしく落ち着いた雰囲気だ。普通の高級レストランよりも2まわりほども小さ目なカルトは装丁もよく、私のお気に入りカルト。そっと開いてこれから過ごす数時間の相棒選びに精を出す。
アミューズ。「白身魚のフライ、パセリのから揚げ添え、タルタルソース」。とても単純ながら、パセリの揚げ方に実力を感じる、シャンパーニュにぴったりの一品。
アントレ。「家禽のサクサクパイ」。たった今、オーヴンから出てきたのよ、熱いうちに食べてね!と言わんばかりにバターの薫り高く艶やかに光るパイのふたのなかには、鳥のクリーム煮。鳥のクネル(はんぺんみたいなもの)まで入ってる。いそいそとクトーをパイに突き立てる。サ、クン。何とも言えない手応えを残しパイが崩れる。あわててキュイエールを取り上げ、クリームとパイをすくって口に運ぶ。サクサクサクサク。香ばしいバターの焼けた香りを残してパイがホロリと溶ける。トロッ。濃厚なクリームが舌にまとわりつく。幸せの一瞬。こういう瞬間があるから止められないんだよね、レストラン通いが。あっという間に焼き立ての美味しさが逃げてしまうのが難点な作品。小さいのを、2回に分けてセルヴィスして欲しいなあ。奇をてらわない、オーソドックスでいて完璧なアントレだ。
プラ。「仔牛のフォアグラ乗せ、マカロニ添え」。ロゼに焼いた仔牛の上に薄切りフォアグラ。周りをながーいマカロニが取り囲んでいる。さらにお皿の縁には小さなリ・ドゥ・ヴォーがチョンチョン。細やかでデリケートな仔牛にはフォアグラはちょっと邪魔。甘さを足すなら、マンゴーなどの南国系果物で補充して欲しい。良く出来たおりこうさん作品だけれど、アントレに比べるとちょっと、ね。
お酒は完璧。フェヴレイの作ったモレイ・サン・ドゥニ。あれえ、何年だったっけ?忘れちゃった。88?89?うーん、困ったぞ。あんまり美味しくって、理性がなくなっちゃんだ、きっと。彼の作ったニュイを思い出させる、ちょっと沈んだルビー色のモレイは、香りはやや控えめながらも、口に入れると、びっくりするほどの安定感。酸味、渋味、甘みがピタッと決まってる。華やかさが先走っていない。地に足をつけてしっかりと現実を踏まえた上で、落ち着いた華やぎを持っている、とてもとてもフェヴレイらしいお酒。これは本当に美味しかった。パイもお酒も完璧に美味しかったけど、完璧を超す美味しいものがあるんだもんね、このレストランには!さ、パンプルムースちゃんのお時間だ!
レストランでワゴンデザートを食べることなんてまずないけれど、ここは特別。なんてたって、パンプルムースちゃんはワゴンデセールに組み込まれてるのですもの。アナナ(パイナップル)のタルト、パンプルムースのタルトとグラニテ、別皿にショコラのミルフォイユとグラス・ヴァニーユを取り分けてもらう。アナナのタルト。別にたいしたことない。
半分残して、パンプルムースちゃんに取り組む。グラニテをパクン。キユゥ、、、美味しい、、、。タルトをパクン。フウゥ、、、美味しい、、、。グラニテをもう一回パクパク。ウァーン、、、美味しすぎる。もう一匙グラニテ。ウッウッウッ、、やっぱり最高だ。タルトに戻る。ハァーッ、、、どうやったらこんなお菓子がつくれるんだろう、、?どうってことないタルトなんだ。本当にただのタルト。見た限り、これがこの世で一番美味しいパンプルムースのタルトだなんて(私が勝手にそう思ってるだけだけど)想像がつかない。でもでも!!!これは本当に素晴らしい。タルトもグラニテも、他では味わえたためしがない、「ジャマン」の最高傑作なのだ。一昨年の夏に初めて食べて以来「この世で一番美味しいデセール」の座を降りたことのない、それはそれはうっとりする美味しさなのです。
「レ・ゼリゼ」の「柑橘類のタルト」の方が、装飾性、素材の組み合わせ的にはもちろん上。でもでも、純粋な味の部分で、やはりこのパンプルムースにはかないません。あっという間にパンプルムースちゃん達は姿を消し、ミルフォイユに取りかかる。グラスもショコラなのに上手く焼けてるミルフォイユも美味しいけどね。パンプルムースちゃんにはとてもとても及ばないよ、、、。
「いかがでした、デセールは?」メートル氏がお皿を下げに来る。
「おいしかったあ。何と言ってもパンプルムースが相変わらず完璧ですね!」
「ありがとうございます。もう一皿、いかがですか?もしよろしければ」。
よろしいに決まってるじゃなーい!小さなお皿に改めて運ばれてきたパンプルムースちゃん達。嬉しいよ、また会えて。パクパクパックン、パクパックン。お腹の中ではさぞかしパンプルムースちゃん達が威張って、他の食べ物を圧倒してるだろうなあ。満喫!
このレストランの一番下の子が、お茶を運んでくる。この子、まだあんまり仕事も与えられずに、デクパージュを見たり、食べ終わった食器を片付けたりするくらいだけだったのが、ようやくお茶の段階で、テーブルに近づくのを許されたらしい。サイド・テーブルに一度プレートを置き、3つ並んだポットのうちそれだけ大き目の一つのふたを開けて、鼻を思いっきり近づけてクンクンクン。どうやら香りを嗅ぎ分けたらしい。ニコッと笑って
「ヴェルヴェンはどなたですか?」
「あ、私です」と友人Y。緊張した手つきで、ストレーナーとポットを持ち、しずくをこぼさぬよう真剣に真剣に、カップにお茶を注ぐ。
お茶の色を見て、「ねえこれ、紅茶じゃないの?ポットもこれだけ大きいし。紅茶用でしょ。このポット?」と友人Y。
「出すぎちゃったんじゃないの?匂いも嗅いでたし、間違いないよ。 ああ、はい。マントは私」と、能天気に目の前に注がれたマントのアンフュージョンの香りにうっとりする私の横で、
「やっぱりこれ、紅茶だよ!」と一口飲んで宣言する友人Y。
「え、じゃこれがヴェルヴェン?」友人Kが、これまたしごく丁寧に注がれたお茶の匂いをクンと嗅ぎ、
「うん、ヴェルヴェン!」と確認。3人で顔を見合わせ、思わず大笑い。
だってさあ、あんなに真剣に時間をかけて香りを確かめて自信たっぷりに注いでくれたのに、間違っちゃったなんて、、、。立場ないじゃーん、セルヴールくん(まだコミかな?)の!彼が真剣なだけにおかしすぎるよぉ。
笑いが止まらない私たちの気配に、何やら自分と関係があるらしい、と敏感に感じたのか、ちょっと不安げな笑顔を浮かべて、
「あの、ひょっとして、僕、間違えました?」と聞いてくる。ど、どうしよう。何て答えればいいの??ウイ、なんて言って前途有望なセルヴール君のプライドを傷つけるなんて、私には出来ないよ。でも、お茶の色を見れば間違いは明らかだし、、。でもでも、彼は色には気づいていないようだし。どうしよう、どうしよう!!
と、一瞬、混乱に陥った後、「ううん、ううん。間違ってないわ。あ、あのね、ヴァカンスの話してたの。ニースに行ってきたの、私たち。カーニヴァル見に。とっても楽しかったのよ!その思い出話。見に行ったことある?あ、あとね、グラースにも行ってきたの。”ジャク・シボワ”知ってる?食べに行ってきたのよ。美味しかったわ、楽しかったし!」「ああ、そうなんですか。ニース、いいですよね」。ちょっとほっとした笑顔を浮かべて、お茶のプレートを持って引き下がるセルヴール君。あれ、ポット、置いていってくれないんだ。
フランス語が分からない2人の友人に、今の状況を説明。再度、大爆笑。
「おっかしいな、何でニースとかグラースのことなんて話してるんだろう、って不思議だったんだよ」
「ゆきのちゃん、必死にあの子と話してるし、なんだなんだ?って思ってたんだけど、、、」
「うろたえちゃったよ、もう!間違っちゃいました?なんてあんな表情で聞かれて、ウイなんて答えられなかったよ。フォローしなくちゃ!って必死に考えたけど、フォローの仕様がなくって、、、。仕方がないからヴァカンスの話しちゃったよ。ひどいよ、私をあんな窮地に陥れるなんて、、、」。全く疲れるフォローだった。
ひとごこちついて、2杯目のお茶を飲もう、とポットを探すがない。そう言えば、さっきあのセルヴール君が、奥に持ってっちゃたんだ、、、。こ、困ったぞお。でもお茶はもう一杯飲みたいし、、。しばらくセルヴール君を待つが、出て来ないので、仕方なくメートル氏を呼ぶ。
「あのぉ、もう少しお茶、飲みたいんですけど」
「もちろんですよ。あれ?君たちのポットは?下げられちゃったの?」
「え、ええ、、」「何てこった、全く!すみません、ちょっとお待ちくださいね」
と、恐い顔をして奥にズンズンと向かうメートル氏。あーあ、怒られるだろうなあ、あのセルヴール君。ごめんね、、、。でもお茶、飲みたかったんだもん。君が、ちゃんとテーブルにポットを置いていってくれれば、こんなことにならなかったのに、、。せっかくさっき君のミスを庇ったのに、水の泡じゃないかあ、、、。
数分後、入れたてお茶を持って、メートル氏の登場。小さ目のポットの一つを、クンと一嗅ぎし、自信タップリに
「ヴェルヴェンはどなたですか?」と、今度は間違いなくヴェルヴェンのアンフュージョンを友人Yのカップに注ぐ。
たっぷりの笑いとアンフュージョンですっかりお腹も楽になった。さあ帰ろうか。マダム・ブシャールが見送りに来てくれる。笑顔がキュートな可愛いマダム。
「もうすぐ出るミシュラン、3つ星つきそうですか?」
「いえ、今年はまだ。でも頑張りますわ。どうぞ、お土産です」と、ロビュション・スタイルを取り入れて、焼き立てのパンを持たせてくれる。
「ごちそうさまでした。おいしかった。パンプルムース、最高でした。」
「どうもありがとうございます。うちの、スペシャリテなんですよ。また召し上がって下さいね」。
マダムとメートル氏の笑顔に見送られ、「ジャマン」の玄関を出る。例のセルヴール君は、お茶を奥に持っていった以来、サルに姿を見せなかった。あーあ、きっと怒られて、プロンジェ(皿洗い)に格下げになっちゃったんだろうなあ。可哀想な、セルヴール君。頑張れ、頑張れ!いつかきっと君も、ルノーみたいに、いいセルヴールになれるよ!
jeu4 mars 1999