ノルマンディー地方のマンシュ県、海辺の村でレストランを営むシェフと美人のマダムは、とても人懐っこくて素敵なカップルだった。その日食べた料理はそれなりにおいしかったが、「僕の料理はこんなんじゃない。僕の店で、捕れたての魚や収穫したばかりの野菜を使った料理は、もっと感動的だよ。自分の地元で、自分の厨房でないと、やっぱり自分の料理は難しいね。おいでよ、マンシュに。ものすごくおいしいものがたくさんあるんだよ!」と熱く語るシェフの目が印象的だった。行きたいと思いつつも、南っ子の私の腰は北へ向かう旅に対して重く、なかなか行く機会をつくれないでいた。
年が改まった頃、同じイベントで別のシェフを取材したときに、そのシェフの手伝いに来ていたフィリップと再会。「もうすぐアニョー(仔羊)の季節だよ!ぜひ春においで」という言葉に、アニョー好きの私としては反応しないわけにはいかない。春のイベントの時にもアニョーを持ってきたけれど、地元で食べるともっともっとおいしいんだ!というフィリップを信じ、今年の春の旅行は、はじめてのマンシュ県。ノルマンディー自体、1回くらいしか行っていない私にとっては、未知の土地とのはじめまして。
フィリップとナディアが1年前から、来るなら絶対ここに泊まるといい、と絶賛していたシャンブル・ドット(フランス版民宿)の素晴らしさを伝えるのに、どうしてよいかわからず途方に暮れてしまう。パリのホテルでキャリアを積んだカップルがオープンさせた、昔の司祭館を改装した4部屋だけのシャンブル・ドットは、内装の素敵さ、音楽のセンスのよさ、朝ごはんの感動、ハーブや花を素晴らしくあしらった広い庭、窓越しに広がるプリモデリアルで幻想的な景色と数え切れないくらいワラワラしている羊たち、そしてホスピタリティー溢れるロベールとリディアの歓待に溢れた、どうもこうも、ひたすら素敵な場所。
心のこもったおもてなしに、雑音のない世界に柔らかく流れるバッハに、感涙もののキャロットケーキに、多種多様なハーブや花々に、そしてへその緒をつけたままにしてみたり、ママンを間違えてはうろたえてみたり、兄弟同士で馬飛びならぬ羊飛びをしてみたり、こちらの庭に侵入してみたりする仔羊たちに、感動感動そしてまた感動の嵐。
信じられないくらいきれいな空気と、保護地域ならではの神秘すら感じる自然、そして砂丘の向こうに広がる、自然美溢れる海、、、、。なんてまあ、ピュアで美しい場所なんだろう。なんで今まで来なかったんだろう?フランス人にとっても観光地ではないんだそうだ、マンシュって。もったいない。
初日の夜は、フィリップたちが自宅に招いてくれ、ナディアの故郷ブルガリアの料理とフィリップお手製のマカロンを、盛大な歓待を受けながらごちそうになる。どちらも、笑ってしまうくらいおいしくて、明日もレストランじゃなくて自宅に招いて〜、と思ってしまうくらいだ。
思っただけでよかった、現実にならなくて、、、。翌日、フィリップの店で食べたアワビとエイは、決して少なくないレストラン経験の中でも、完璧にトップクラス、下手するとベスト10に入るような、驚愕的なおいしさを持っていた。アワビもエイも、1年前のパリのイベントで同じような料理で食べた。でもでも!全然、本当にぜんっぜん違うっ!
甲殻類の香りをクリームに移したエミュルジョンなのだろうか?とにかくもう、気が遠くなりそうにおいしい軽いクリームが、アワビの殻に入れられた、こちらもどうしてこうまでおいしいのだろう?とびっくりするほうれん草の上にフワリとかかっている。特産のアワビ(日本にも輸出してるんだって)自体ももちろんおいしいのだけれど、ほうれん草とそしてなにより、このソースの旨みに味覚がとろける。
スパイスやハーブ使いが得意なフィリップらしく、この料理にも、かすかにエキゾチックな香りを感じる。決してあだっぽく主張しない、あくまでも風が流れるように捉えがたい魅力を持った香りだ。添えてあるロケットの生々しい苦味がまたすごい。なんだこのロケット?きっとジェラールのロケットだろうね。
ジェラールは、パリのイベントのときにフィリップが自分のアニョーの生産者として連れてきた、羊飼い&野菜栽培家。今回の旅は、彼が砂地で作っている古種野菜やニンジン、ハーブを味わうのも目的だ。明日、彼の畑に行くのが楽しみだ。
横でスピちゃん、興奮状態。当然だよね。こんなおいしさに巡り会える幸せがいかに稀有か、私と同じくらいスピちゃんは知っている。全身全霊を傾けて、皿を終える。
ナディアの趣味を反映したデコラティフで暖かな内装の店は満席。こんな田舎で、しかも街の中じゃなくて、周囲数百メートル、ううん下手したら1キロくらいにはなーんにもないような場所で、よく満席に出来るよね、、、。オープン当初は大変だった、と2人は言うが、これだけおいしい料理とサンパなサーヴィスを提供すれば、こんな場所であってもお客様が詰め掛けるのは当然だ。ミシュランが3ツ星店を形容する“旅をしてでもその店に行く価値がある”という説明は、彼らの店にこそふさわしい。たとえミシュランがこの店に、フォーク2本の無星評価をつけていても。
こういう料理を食べて、ミシュランの評価と照らし合わせると、ほんっとにガイドブックの存在が馬鹿らしくなってくる。3月、ノワールムチエ島で巡りあったレストランもそうだった。この店ほどのレベルではもちろんないにしても、ゲラールさんち出身の料理人の料理は、ちょっと目を見張るおいしさ。ミシュランには名前すら出ていない。
感動的なアワビとのひと時を終えた後、私たちを待っていたのは、さらに目くるめく美味の世界。捕れて数時間しかたっていないエイを、ジェラールの農園の野菜とともにいただく。一見、う、これは重たげかもとひるんだソースが、もう気が遠くなるようなおいしさ。野菜も、ピコちゃんちやシリノさんちをしのぐ勢いで味のよいアスパラガス(これだけはジェラールの農園じゃなかった(笑)。ジェラールは季節感を怖ろしく大切にするので、この時期にはもうミニアスペルジュをつくらないんだ、と翌日言ってた)を筆頭に、どれもこれも、野菜本来の味を改めて、ううんひょっとしたらはじめて教えてくれる、極上の風味。
そしてなにより、主役のエイにしびれる。人生最高のエイ料理は、5〜6年前、「レ・ゼリゼ」で食べた(というか友達のを味見だけさせてもらった)、アラン・ソリヴェレスがつくった、コンガリとから揚げ的に火を通したものだった。が、ついに今夜、あの春分の日に食べたエイを超える料理に巡りあった。とろけるような食感と、繊細な味というエイ本来の質の高さがまず、前代未聞。そしてそれを、極上の料理に昇華させたフィリップの手腕もまた、怖ろしいほどにすごい。フィリップ・アルディという料理人の力を、パリではろくに理解できなかった自分が情けなくなる。本当に涙が出そうなおいしさに、スピちゃんともども、生きててよかった、、、としみじみ感動。
料理人なのに、デセールもおいしいところに、フィリップへの尊敬がさらに高まる。夕べ、自宅でごちそうしてくれたマカロンも、うわぁお!という感じおいしさだったけど、今夜のガナッシュとクリームの冷たいお菓子も、そんじょそこらの洒落たレストランなんかよりずっと美味。すごいなあ、パティシエとしての才能もあるんだねえ。
海のヨード香を閉じ込めたブイヨンから始まり、涙ものの料理2品、ノルマンディーの自慢のフロマージュ、素敵なおやつ、そしてオルゴールの引き出しに入ったプチフール(これは普通の味(笑))と、摘みたてのハーブを使って丁寧に入れる食後のお茶。信じられないおいしさのフィリップの料理と、ナディアの底抜けに愛情あふれたサーヴィス。得がたい至福のひと時に、魂がふわあと開放される。
明日はどんなおいしいものが私たちを待っているんだろう?今夜よりさらにおいしいものに巡りあうのかしら?これ以上おいしいものが、現実世界にあるはずがないという、恐れに近い期待を胸にいっぱい詰めて、私のフランス語能力で表現できる限りの賞賛を2人におくって、オヤスミまた明日ね!墨を流したような夜を支える光は星の輝きだけ。なんだか自然に申し訳ないような気持ちになりながら車のライトをつけて、味わったばかりの感動の残響を体中に感じながら、こちらもまた感動的な居心地のよさに包まれたシャンブル・ドットに戻る。
mer.4 mai 2005