数年前の小金持ちだった2年間、時折り自分に与えていたささやかな贅沢がいくつかある。ラ・スカラで、コヴェンド・ガーデンで、ほんの数時間のオペラに陶酔するためにだけ国境を越えた、週末のミラノ、ロンドン旅行。こちらは向こうからパリまでやってきてくれる、ベルリン・フィルとウィーン・フィルのコンサートの特等席。なめらかな皮が肌に吸いつくようなイタリア製の靴、ハンドバック、手袋。そして「ペトロシアン」のカヴィアとソモン。(あらやだ、非フランスものばかりね。)
「ペトロシアン」。アンヴァリッドに門を構えるこの店の名前を知らないパリジャンはいるかもしれない。でも少なくとも、グルマン(食いしん坊)ならずグルメ(美食家)を自認する人々の間では、ここを知らないなんていう事実は許されないことだろう。美食の国の首都が誇る、世界3代珍味の一つ、カヴィアの専門店。カスピ海で腹を空けられたチョウザメから取り出された、黒い真珠を手に入れるための店。黒い、っていうのはちょっと語弊がある。プレセみたいな安物ならばいざ知らず、質の高いカヴィアの色は決して黒ではない。輝く灰色、んー、玉虫色と形容するほうがずっと近い。
ロシアの亡命貴族の廃頽を目の当たりにする優雅なスラヴ調の内装の店では、各種カヴィアをはじめ、「フォション」よりも更にワンランク高級なソモン・フュメ、自家製の素晴らしいブリニ、それにカヴィアのお約束ウォトカがずらり。典雅な異国情緒が漂う中、パリのほんとのお金持ちにこっそり交じって、お誕生日やクリスマス、その他嬉しい理由を作れる時に、ささやかな贅沢を自分にプレゼントしてた。「ペトロシアン」に足を向けなくなって久しい。ああ、お金持ちの時代はよかったなあ。
この、超高級食材店の上にレストランが開かれたのは、2年ほど前だっただろうか。9区の「ターブル・ダンヴェール」で腕を振るっていた、エキセントリックな兄弟の片割れが、ムシュ・ペトロシアンに手をひかれ、川を渡って7区にやってきた。デセールの魔術師、と評判高かったフィリップ・コンティティーニはもともと料理の世界の人。彼が、料理とデセール両方を監督し、カヴィアやソモンを使った、独特のコンティティーニ・ワールドを繰り広げるようになった。
行こう行こうと思いつつ、なぜか後回しになっていたレストランに、ようやく決心してテーブルの予約を入れた数日後、「ペトロシアン」は光栄にも、今年のギッド・ルージュで、初めての星を頭上に受けた。
期待が倍増したレストランに行く前に、「バー・エミングウェイ」に寄り道。Sかちゃんが描いたアーネスト・ヘミングウェイの絵を、パリきっての有名バーに献上しに、Mこさんと3人で赴く。Sかちゃんの絵は、本当に素敵だ。我が家の猫の絵も描いてもらわなくては。
食事前だし、レストランでアペリティフも飲むから、お酒はやめておこう、と決心していったのに、ああ、私の決心てばあまりにもゆるゆる。カウンターの横の叔父様の前に置かれた、あまりにも可愛らしいお酒に視線が釘付け。たたみかけるように、叔父様とヨアンヌが、「すっごく可愛いでしょう、これ」と、私を誘惑。「いろんなバーでこれを作ってもらうんだけど、ここのが最高。他で飲めなくなっちゃったよ」との叔父様のささやきを右耳に受ける。「飲む?」とのヨアンヌの誘いが左耳に届くと、意志とは関係なくかってに私の頭は上下に揺れる。
結局、素敵に美味しくて可愛いカクテルを飲みきる。
「いいんだいいんだ。「ペトロシアン」で飲みすぎないように気をつけるもん」知らないよー、って顔してるMこさんとSかちゃんに、ささやかな言い訳しているのを聞きかじるヨアンヌとクリストフが目を輝かせる。
「なに?ピュス、これから「ペトロシアン」なの?すっげー」
「いいなー。食事終わったら、お土産持ってまたここ戻っておいでよ。シャンパーニュはこっちで用意するからさ」このレストランの名前は、まるで媚薬のように、人をうっとりさせる。
やば、遅れてる。Mこさんたちにバイバイして、メトロへと急ぐ。待ち合わせの場所に着いた頃には、あらやだ、顔がちょっと熱い?飲んだあとの小走りがまずかったかなあ。不本意にも、すでにちょと酔っ払ったような顔で、久しぶりに目にする高級食材店の裏に回って、レストランへの階段を上がる。ブティックの上に作られたレストランは、天井の低い、白くこざっぱりとした空間。テーブルクロスと椅子に使われる様々な色が、この空間を華やかにしている。8時半前、ほぼ満席。さすが、星の威力だよね。
一番奥の窓際に通してもらって、着席。場所とレストランの名前のかもしだすおハイソな感じによーくお似合の客達を楽しく眺める。すごいよ、だって。外国人ゼロ。めったにない、そんなレストラン。私たちがいなかったら完璧に、左岸に集うお金持ちパリジャンの集まり、って感じ。7区在住民が、どのくらいの割合か調べてみたい誘惑に駆られる。
スラリと腰の細いフルートにシャンパーニュが注がれ、カルトを広げる。最初のページには、「ペトロシアン」が誇る、数々のカヴィアの名前がずらり。ちょっと待ってよぉ、これフランよね?円じゃないよね、やっぱり?値段見ただけで、ゾクッと背筋に震えが走るような、スリルたっぷりのお値段。ベルーガ、2000フランかぁ、、、。何グラムよ、これ?2000円なら喜んで食べるけど、2000フランじゃなあ。ああ、こんなの平気な顔して食べてみたいわ。夢の中ででもいいからさ。
ため息つきながらカヴィアのページを繰り、普通の料理が並ぶ欄を目で追う。魚、というよりも、ソモンの使用量がやっぱり格段に多い。生、マリネ、フュメ、ソルベになったソモンまである。デンマークの美味、白ソモンもあるし、カジキマグロのフュメや、カヴィアのママンであるチョウザメまで食べられる。いろんな種類のブリニも用意され、さすがにユニークなカルト構成。時間かけてゆっくり読み、再三の変更修正を経て、ようやく料理の決定にこぎつける。パン皿にパンが置かれ、セルヴィエットを膝に広げ、アミューズが運ばれる。それでは皆様、ボナペティ!
アミューズは、小さな四角い白のお皿に載ったトン・ブラン(白マグロ)。軽くフュメしたのを薄くスライスした一切れ。周りにはオリーヴオイルとバルサミコ。細かな香辛料が添えられてる。美味しいけど、ごく普通の料理。もちょっと手を加えてあると可愛いのに。買って帰れちゃうようなものはつまらない。
おかしいなあ。もっとクリエイティヴで変わった料理が出てくるはずなんだけど、と、首をかしげたのは、アミューズだけだった。以下、アントレ、プラと、分かった!よーく分かった!というくらいに、かなり個性的な料理がずらりと目の前に並ぶ。
リムーと言えば、プチプチお酒のブランケット、としか知らなかったけど、普通のお酒も作ってるんだ、この地域。樽香がいい意味で優しく効いた、南らしいまろやかさとコクが、浅はかさと絶妙に同居した可愛い白ワインを飲みながら、アントレを目の前にする。
「すっごい可愛い」
「見て、この色。なにこれ?」
「ああ、これがソルベね」それぞれの目の前に運ばれたお皿が、どれもこれも気になる。色といいデコレーションといい、ちょっと普通じゃない。
「フォアグラのリゾット、フォアグラのエミュルジヨン」。今夜選んだアントレは、こんな、ごく普通の名前の料理。ちょっと深めのお皿に、リゾットとポワレしたフォアグラ、そこに、フォアグラの焼汁を煮詰めたところにクリームを加えたソースがかかってるんだろう、と想像してた。出てきたそれは、ま、確かに、基本的にはそうなのだけれど、全然違うんだよね、見た目のインパクトと味のインパクトが、想像していたのとは。
まず目の前に置かれたリゾット。白いクリームで和えられたリゾットの上に、ニンジンとフォアグラ。白い米の周囲は、オレンジ色。真オレンジ。ほんとにマンダリンやオレンジそのままに、きらきら輝くオレンジ色なの。と、も一つ、グラスに入ったオレンジ色が置かれる。
「はい、こちらがエミュルジオンです」
「はい?」思わず目が点。手にちょうど収まるくらいのグラスには、こちらもオレンジ色したクリーム。よく見ると、白い部分や茶色の近い部分もある。椅子や一枚目のテーブルクロスの色同様に、予想外にヴィヴィットな色の料理を目の前にして、しばし見惚れる。向い側では、真っ白なソモンのフワフワに目を奪われ、横では、薄いピンクのソモンのソルベに視線が向けられている。うーむ、シュールな世界だ、、、。
味の方は、目の前の色を考えると意外なほどに、きちんと美味しい。レモンの酸味が私にはちょっと強すぎるのが残念なリゾットは、甘くトロリとポワレされたフォア・グラと一緒に口に含むと美味。添えられたニンジンは、東洋の香りをたっぷりすりこんである。香辛料使うの、好きなんだね。サルの中央には、たくさんの香辛料の入った瓶が飾られているし。
エミュルジオンの方は、いわゆる「エル・ブジ」風とでもいいましょうか。フォア・グラをサイフォンにかけたものに、生クリームを添えて、ジュを少し。下の方には、野菜やナッツのコンカッセ。他のレストランでこんなの出てきたら、「エル・ブジ」の真似、って言っちゃうところだけれど、ここに関しては断言できない。以前から、フィリップ・コンティティーニのシュールな世界は有名だったし。まあでも、このテクスチャーはサイフォンでしか出せないのでしょうから、この部分は「エル・ブジ」なんでしょうね。
まるでカフェ・クレームのクレームをすくって食べている感じなのに、紛れもなくソモンの味しかしない真っ白なフワフワ。ソモン・フュメ以外の何物でもありえない、でも、形状は冷たいソルベと化した桃色のクリームを味見して、頭が少しずつこんがらがっていく。んー、エミングウェイで飲んだカクテルが、周りはじめてきたのかなあ。
プラは、「マリネしたソモンのポワレにそば粉のブリニ、シュー(キャベツ)とトピナンブール(菊芋)を添えて」。あ、やられた。シェフのお遊びに、しっかり引っかかってしまった。ナイフを料理に触れさせる寸前に、シェフの仕掛けた可愛いトリックに気が付いてにっこり。ここで、画像をまず、見て欲しい。ぱっと画像を見て、どこがお遊びになってるか分かる人、いますか?
四角いお皿は好きじゃないけど、これはそれなりにオリジナルで可愛いな、と、目の前に皿が置かれてまずお皿の形を見たあとに、料理を眺める。ソモンの身は脂でツヤツヤ、皮はカリッと香ばしそうだわ。まず、そう思った。
キャベツは下ね。トピナンブール、あんまり好きじゃないんだ、残しちゃおー、と、さらに細かく眺めている時にも気がつかなかった。ソモンにお決まりのように添えられるアネットは大嫌い。えい、端っこに行ってなさい、と、ソモンの上に乗っていた、アネットをよけた瞬間、え?と思う。と同時に、思わず吹き出す。アッハハハ、かーわいい!よく出来てる。お上手お上手!そば粉のブリニを発見。画像見て、どこにあるかすぐ分かる?カムフラージュになってるのよ、ソモンの皮として。
そう、こんがり焼けておいしそう、と目に映ったのは、ソモンの皮ではなく、そば粉のブリニだった。皮のあるべき位置にかぶせられ、ご丁寧に、切れ目まで入れてある。焼き加減がまた、どう考えても皮の模様にしか見えない、念の入れよう。
「こーれは可愛いよぉ、すっごくオチャメ!」思わず、脱力してカトラリーを置いてしまう。
視覚をたっぷりと楽しませてくれたソモン、味覚と嗅覚も、十分に楽しませてくれる。マリネされたソモンからは、レモンの香りがソモンの脂と混ざり合って、なんともいえない甘みが漂う。火を通したのは何十秒という単位だろう。トロリと生のソモンの周りだけ、浅く浅く熱が通った桃色。この季節ならではの、脂の乗り方が最高だ。マリネにしたからこそ出来る、こんな生々しいソモン料理をいただくのは初体験。美味しいわ、これ。そば粉のブリニにも徐々にソモンの脂が移っていき、美味。もう一枚あってもいいのにな。でもそうすると、皮としてみせられなくなっちゃうのよね。他の料理のブリニの使い方、見てみたかったなあ。
イタリアン・パセリのから揚げは美味しいけれど、シューとトピナンブールは、この際、あってもなくてもどうでもいい。私としては、ソモンの脂を楽しむべく、ポム・スフレあたりをガルニにしてくれていれば、もっと好みだったかもしれない。
他2人が食べた、ルジェ(姫鯛)も抜群。くるりと反り返ったルジェを見て、「へえ、ルジェが反り返ってるのって初めて見るわね」と、人差し指をくるりと回すと、サーヴしていたセルヴール君がにっこり笑ってフランス語で、「ウィ。これ、ポワレじゃなくて、油で揚げてるんです。そうすると、丸まっちゃうんですよ」だって。勘がいいね、よく出来ました。こういう勘が働く人、好き。
エミングウェイのヨアンヌとかエリックさんがそう。怖いくらいに、日本語の会話についてくるんだよね。びっくりしてしまう。対極にいるのがパトリスか(笑)?フランス語で会話しても、話が食い違う。なーんて言ってはいけないか。でも、あのおとぼけ具合が、パトリスの魅力だわ。大好きよ、パトリス。
これはもう、なるべくして1つ星となったレストラン。その創造性、味、サーヴィス、内装、どれをとっても、それ以上ではないけれど、それ以下でもないでしょう。内装は、照明をもう少し落としてくれると嬉しいのだけれどね。
デセールで名を馳せた、フィリップ・コンティティーニのお菓子は、期待外れ、というか、大きすぎた期待からするとちょっと、ね。混沌の世界。あまりにも複雑すぎて、なにがなんだか分からなくなっちゃう。「ショコラのビスキュイ、カカオのクリーム、プラリネ、それからXXX(忘れた)、YYY(なんだっけ)、ZZZ(んー?)も入ったもの」と、説明されて選んだものなのだけれど、なんだかもう、カオスだ。一つ一つ練り上げた素材を、思いきり複雑に組み合わせてくれた結果、なにを食べているのだか、理解不能にさせられる。「チョコレート、、、カラメルにしたナッツも入ってる。カネルのアイスクリーム?あ、カネルは振ってあるだけか。冷たいカフェのクレーム?なにこれ?」スプーンを口に運べば運ぶほど、中身について自信がなくなっていく。
アヴァン・デセールで出てきた、オレンジ・コンフィのスライスが添えられた柔らかなショコラのお菓子はグー。このくらい、小さくてシンプルなほうがいいわ。フィリップ・コンティティーニの世界は、あまりにもシュールで、一般人にはついていけないよ。頭悪くて、ごめんなさい。
で、そのシェフが、サルを挨拶して周っている。写真でしか見たことのなかった、巨漢のシェフは、肉眼で見ると、一層にその大きさが圧倒的だ。これはすごい。アメリカ人的太り方、とでも言うのだろうか。ちょっとほんとにびっくりするくらいの大きさ。ピエール・エルメかフィリップ・コンティティーニか、というレベルの争いだ、、、。気はいいらしい(厨房では知らない。少なくともお客様に対しては)シェフとちょっとおしゃべりして、星取りのおめでとう言って、ゆっくりお茶飲んで、ごちそうさまする。
適度にワクワクさせてくれて、適度に美味しくて、適度に気軽で、適度にクール。お値段も適度。今夜はお酒込みで600フランくらい?バランスのいいレストランだね、ここ。遊び心と技術、素材のよさが仲良くしてる。かなり高かった期待にちゃんと答えてくれた、おりこうさんレストラン。
適度に満足した後、日付が変わるのを気にしながら川を渡って再び右岸へ。オテル・ヴェルネに入ったところで、アランにばったり。
「マドモワゼル・グルマン!お誕生日おめでとう!ゴメンネ、先週来てくれたのにいなくって」こんがりキツネ色に焼けたアランは、サン・ドミニクでヴァカンスだったらしい。
「お誕生日プレゼント!」と嬉しそうに、いつものナッツの砂糖がけを二袋もくれる。えーん、、、。バラの花がいいのになぁ、、。という心の声は出さずに、満面に笑顔を浮かべてメルシー・ボクー!こんな笑顔みせるから、いつもこれもらっちゃうんだよね。反省反省。バラの方が好きだ、って言わなくちゃ。「ジャイピュー」でMこさんと再会し、駆け付けの一杯、とジンベースのお酒。いい加減気持ちよくなったところで、「ジャイピュー」にバイバイして、仕事が終わったヨアンヌ他と凱旋門近くのバーで合流。かーわいいアメリカ娘、自称アーティストのフランス人、ぼんやり朴訥アメリカ人らとワイワイガヤガヤ。呆れるくらいにアルコールを体内に貯えて、明け方のパリを、家路目指してタクシーを走らせる。
「こんな時間、普通は酔っ払いしか乗ってこないんだ。君は、全然酔っ払ってなくて、冷静で嬉しいよ」皮肉だったのか、本心からだっのか分からない。顔に出ないからなあ、私。降りる時、わざわざ降りて後ろに回ってくれて、手をひいてエスコートしてくれた、おどおどした笑顔が可愛いタクシーの運転手さんに言われた言葉を、この夜一番の名言とし、笑いこけながらベッドに倒れ込れこんだのでした。
ven.16 mars 2001